愛の感情は自然なものであり、意識して感じようとするものではないとずっと思っていた
例えば目の前にいる態度の悪いコンビニの店員さんに意識的に愛を感じることは可能か
そしてそれは正しい?ことか
この問いはなんとなくずっと心の内にあったが真正面で捉えたことはなかった
ここ最近だが、答えは可能であり、そうすべきではないかと思うようになった
先の例で言えば目の前にいる態度の悪い店員に愛を感じようとすれば自分の感情に嘘をつくことになりはしないか、自分に無理を強いていることになりはしないかと言う疑問が残る
感情はエモーション
動くエネルギーとされている
常に揺れ動く
店員の態度次第というわけだ
そしてそれでいいのかという問題がある
態度の悪い店員の時は、イラついた感情になり、良い店員の時は、優しい感情になる
それはもちろん自然なことだ
でもそれでいいのだろうか
自然ではあるのだが、自分の外側に影響され、感情が巻き込まれているとも言える
わかりやすく言えば「平常心」というやつだ
揺れ動く自分の感情の奴隷になるか支配者になるか
感情は「決め」て「コントロール」することができる
人間は感情(外部刺激による)の奴隷となる必要はなく、自分で感情を選び取り、それ故にもたらされる結果をコントロールすることが可能ではなかろうか
態度の悪い店員ではないが、あるやり取りで、いわゆる若くて無知で鈍臭い社員と話す機会があった
いわゆるイライラさせられるタイプである
今までだと、偉そうに瞑想歴30年とか言っているくせに、全然人間ができてやしないものだから、すぐイラついた表情が顔に出る
女房はそんな自分をいつもバカにする
ところが、このやり取りに、娘が加わっていたものだから、さすがに自分も抑えて対応していたのだが、その最中に、その彼にふいに愛を感じたのだ
自分でも不思議だったが実際にそうだったのでどうしようもない
そしてその後がさらに不思議な展開になる
その彼が必死になってこちらのために頑張ってくれる
鈍臭い面は多少残るもののそれを有り余るほど熱心だ
彼に愛を感じてから、このやり取りの結果について時々思い出すことがあり、それは不安要素でもあったのだが、その度になぜか大丈夫だという感覚がやってくる
そしてその通りになっていく
今思うことは、愛は大きく、全てを受容するということだ
一時の瑣末な感情に振り回されてしまわず、目の前にいなくてもよく、誰かを思い浮かべても良い
愛を感じるのだ
意識的に感じるのだ
もちろん無理のない範囲で
慣れればもっと自然にできるようになるかもしれない
そして愛は自然な感情で自然な流れを生み出しああ、なるほどと心から分かる結果へと繋がっていくのだ